戦争を追体験する立場

現在のぼくが第二の人生を始めるといいながら、どう生きるのか明確でなく具体的でなく自信がありませんでした。それは生き方の軸が26歳の頃からまだ変革されずに来ていることを意味していました。本を読んだり小説を書くと言ってみても、目的を訊かれると抽象的にしか答えられませんでした。学生の頃ぶつかった問題を深く掘っていくことは退職して2年間やってきたと思うのですが、これからも自分がどういう立場に立つかを決められずにいました。スターリン主義に抗してマルクス主義の立場に立つといっても心情を保つ程度のことだし、Tくんのような市民活動に参加することも乗り気になれませんでした。読書会は楽しみの一つではありますが、テニスをするのとそんなに代わり映えしません。何かが心の底で空虚だったのです。

ぼくにとって先の戦争は幻想のようにもやもやとしていました。これまでの読書体験から戦前の事実に触れるとき、昔とはいえ精神がとても20世紀とは思えない古めかしさを感じていました。知的な文学者や画家が大政翼賛的になってとても近代的な芸術家と思えないのがずっと不思議でした。ヨーロッパの同時代の芸術家と比べようもなく、古びて見えました。、、、それが初めてヨーロッパと時間的に通じている文学者を知ることになりました。中村眞一郎、福永武彦、加藤周一です。彼らは「マチネ・ポエティク」という同人誌で活動していました。 福永武彦は結婚後生活が苦しく奥さんと分かれ一時生活保護を受けるくらい貧乏でしたが、志は高く胸を打つものがありました。彼らの博識は驚異的で反軍国主義は左翼以上のラジカリズムがありました。ぼくが予想した通り終戦直後の解放された自由さが「1946・文学的考察」にみなぎっていました。それを受け継ぐ(と言って作家になるというのではなく)ことを自分の立場と考えることで初めて精神的な安堵感が得られました。これでぼくの中で先の戦争に対して自分がどこに身を入れて追体験していくかがつかめ、これから何を残していくかも見出していけそうです。

ぼくにとってこういうことで生きる自信につながることが誰かに理解してもらえるかというと、どうなのかな?でも、以前よりは張り切って元気になれば少しは意味のあるセカンライフを送れそうと感じました。

1968読書会

ボブ・ディランやPPMが反戦歌を歌いストーンズだって「黒くぬれ」でベトナム反戦のメッセージを送ったが、中学生だったぼくは歌詞を理解できなかった。政治は街頭デモが鮮烈だったけれど、文化革命というより大きな文脈で語られ、政治に無関心な人もその時代の雰囲気に呑まれていた。大学をドロップアウトして日雇い労働者になったり、ヒッピーになって一生幻想を彷徨い続ける詩人たちもいたんだ、今では信じられないけれどね。

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